うつと共に生きる~わしゃ死なん

無職のひとり親母ちゃんの縁側日記

発病当時のこと〜18年前〜

どーも。びんちゃんです!

 

今日は発病当時のことを書こうと思います。

 

はじめにおかしくなったのは18年前。

3人目が生まれて、1〜2ヶ月後くらいです。

 

1人目2人目の出産の時は実家に1ヶ月くらいお世話になっていたのですが、3人目は帰りませんでした。

 

実家には、時々2才と4才のやんちゃ盛りの男の子を見てもらうことがあって、もう親は疲れ果てていました。

 

この上、生まれたてを連れて行ったら

えらいことになると思いました。

 

疲れるとお互いピリピリくるのは、2人目の出産の時の実家で経験済みだったこともあり、退院後はわが家で大丈夫と踏んだ訳です。

 

 

なにせ2人目までは、育児が楽しくて楽しくて。

大変ではあったけど、もう慣れていました。

赤ん坊なんて、余裕っしょって。

 

ところがどっこい。

 

3人目無事に産まれてくれましたが、3日目の夕方、いきなり39度を超える熱を出し、急遽NICUのある大学病院へ救急搬送されることになっちゃいました。

 

搬送時は、私は入院中で、まだ退院はダメと言われ、娘の病院には行けないし、母乳は絞って夫に病院へ届けてもらわなきゃいけないし、何より搬送される前の保育器の中の娘がぐったりしていた姿が頭に焼き付いて、かわいそうで、心配で。

 

結果、原因は分からず1週間後に無事退院できましたが、最初のうちに母乳をあまり飲ませられなかったからか、1ヶ月になる前に風邪を引いたり、上の子から水疱瘡が移ったり、私が高熱を出したり…

 

何より上の子たちは目が離せないのに、もう1人赤ちゃんがいる!当たり前な事ですが、戸惑ってしまいました。

 

その上、夫は仕事が忙しく帰りも遅い。

帰ってきても子供の話なんか聞いてくれないで、仕事の愚痴ばっかり。

 

当時ペーパードライバーだった私は、土日以外は買い物にも行けず、それまで毎日近くの自然豊かな公園で野放し育児をしていた楽しい生活とは、ガラッと変わってしまいました。

 

夫が朝、出勤する時、玄関のドアがガチャっと閉まる音が

牢屋に鍵をかけられたように思えて。

 

完全なる孤独育児。

 

それまでできていた家事もままならない。

当時、ほぼ完璧お母さんだった私。長男が卵アレルギーというのもあって、ご飯もおやつも手作りのみ。食材もなるべく添加物が入ってないものを選んでましたし、餃子の皮まで手作り。

冷凍物を買うとか、お惣菜を買うとか信じられませんでした。

 

ガチガチの頭の固い、お母さん。

もちろんオムツも布オムツ。

おっぱいをあげる前に拭く清浄綿でさえ、脱脂綿を沸騰させて作り、哺乳瓶の消毒も煮沸(ミルトンなんて信じないんだから、と)

 

2歳と4歳のやんちゃな男の子と産まれたてでしょっちゅう熱を出す赤ちゃん。

そして家事に妥協することが許せない私。

できない自分にイライラ💢

手伝いしないしも関心もない夫。

 

そりゃ〜おかしくなるよね〜( ̄▽ ̄;)

 

もう、ほぼ一日中ストーブの前でしゃがんで頭を抱えて耳を塞いで過ごしました。このポーズが1番落ちついたんですよね〜。

 

子供達が寄って来ても、

「あっちに行ってて‼︎」と怒鳴り、

私の涙は止まらない。

赤ちゃんは放ったらかしにするわけにいかないので、お世話してましたが、上2人は放置です。

 

ある朝目が覚めたとき、

あぁまた一日が始まってしまったと思ったら、涙が頬をつたい。

 

もうダメだ。限界。私おかしい。と気づき

夫にお願いしてその日は仕事を休んでもらって、病院へ行きました。

 

それからもう18年近く。

はじめのうちは、子供達と踏切に飛び込もうと、近所の踏切まで何度行ったことか。

ストーブに新聞突っ込めば家ごと燃えるとか考えたりして。

 

ああいう時って不思議なもので、死にたいなら自分一人で死ねよと通常なら思うのですが、

子供達だけ残して自殺したらかわいそうとか、

将来母親が自分たちを捨てて自殺したと知った時に傷つくのではないかとか、

あの世でゆっくりお世話してあげるねとか、

まったく都合のいい言い訳で頭の中がいっぱいになっちゃうんですよね。

 

しばらくは投薬治療をしながらも、そんな毎日でしたね〜。

 

 

私が少し回復したのは、パートに出てからですね。

(元夫、トラブルを起こしクビになる)

経済的に働かなくてはならなくなり、ソース工場のパートに出ました。

保育園は公立ではないのでお高かったのですが、教育理念が素晴らしく、

毎日自然の中に連れ出して思いっきり遊んだり畑仕事したり。

お昼ご飯は原っぱで摘んで来たナズナとか畑で育てた野菜とか、時には子供達が捕まえたイナゴとかが並び、もう私の理想通りの保育園だったので、安心して預ける事が出来ました。

 

工場では、ソースの瓶にラベルをつける流れ作業が主で、ちゃんと曲がってないかとか、日付の印字がズレてないかとかの検品が、ベルトでガンガン流れてくるので超集中しないと出来ません。

休み時間になり

あ、私今子供のこと頭の中に無かった!とビックリ!

子供が生まれてから初めての経験でした。

 

少し子供のことから頭が離れたのが良かったんだと思います。常に頭の中にあったのですね。

 

少しづつ調子が良くなりました。

 

元夫は仕事についてもすぐに不満を口にして辞める、を繰り返し、

将来の不安から、昼間工場で働いて、深夜はラーメン屋で午前3時近くまで働くという、専業主婦とは真逆の生活もしましたねぇ。

 

まぁ、その後も離婚のゴタゴタとか、仕事のストレスとか、病気は完治する間もなく、良くなったり悪くなったりを繰り返して現在に至ります。

 

 

そして鬱が障害手帳の対象になる事も、自立支援法も知らないまま、ずっーと来たのですから、おバカさんですよねぇ〜。

 

 

現在は今まで中でも調子は良い方です。

精神的にもかなり強くなったんじゃないかな?

 

 

まあ、いつまで続くかわからない治療ですが、酷い時期もあれば調子良い時期もあります。

 

今現在辛い真っ最中の方。

私みたいにこじらせてしまう事もあるかもしれませんが、それでも調子が良くなる時期は来ます。

いきなり完治を目指さなくても、少しでも元気な気持ちが出てくるのをもう少し気長に待ちましょう。

 

今は、あの時死ななくてよかった!ってつくづく思います。

そんな日がくるんだね。

 

 

てな感じで

びんちゃんでした〜。

ではでは。